■■■ 空高く一等星 月が煌々と照らす夜だった。 湖を渡る風は涼しく、戦の残滓で火照った体をほどよく冷やしてくれる。 青い光が差し込む廊下を、フリックはビクトールと連れだって歩いていた。 ビクトールのごつい手には酒瓶が幾つも抱えられている。かくいう自分もマリーに適当に作ってもらったつまみを持っているのだから、人のことは言えない。 階段の踊り場にさしかかると、階下から抑えきれないざわめきが、風に乗って流れ込んできた。 湖に突き立つ岩城では、居住する階層はほぼ洞窟状のため、階段部分に換気も兼ねた窓が開いている。当然、窓ガラスなどという上等なものはない。嵐が来たら木の板で塞ぐのがせいぜいだ。 暗殺者が忍び込んだこともあるそうだが、今は警護の人員も大幅に増えている。忍が仲間に加わったこともあり、危険性はほぼないといっていいだろう。 各部屋は扉や壁で区切られているものの、通路や広間は開け放しだ。つまるところ、騒げば上の階にもそれなりに筒抜けなのだった。 ひときわ大きな笑い声が聞こえて、フリックは足を止める。 月明かりを弾く湖面には、城の影が揺れていた。三つの大きな岩壁のうち、主に元赤月帝国の将軍たちが起居する辺りはしんと静まり返っている。その代わり、中央にそびえる城から立ち上る熱気は、宵闇をずいぶんと賑やかに彩っていた。 なんともいえないため息が夜に落ちる。 「フリック?」 ビクトールが足を止めて振り返った。 「ああ……」 視線をやった先、対岸でちらちらと明かりが燃えている。 本拠地たる岩城はそれなりの偉容を誇るとはいえ、何千人も収容できるほどの大きさはない。投降した元帝国軍の兵士は勢力下に分散させているが、テオ将軍旗下の兵たちは、ひとまず湖岸で野営しているはずだった。雷撃将グレンシールと火炎将アレンも、兵の落ち着き先が決まるまではそちらで過ごすと言っていた。 結果的に、それでよかったのだろう。少なくとも、勝利に酔いしれるこの城に彼らを呼び込んでは、溝が深まるだけだっただろうから。 「なんでおまえがそんな顔してんだ」 気がつけば、湖に映った城影をにらみつけていた。ビクトールに指摘されて、眉間に皺を寄せていたことを知る。 「……騒ぐなと言ったんだけどな」 「そりゃ無理な相談だな。前の戦じゃコテンパンにやられたんだ。ほとんどの奴らは『借りを返した』くらいにしか思ってないさ」 ビクトールの口調は軽かったが、言葉にはどこか苦みが滲んでいた。 軍主の少年が部屋に引っ込むまでは、それなりに憚る様子ではあったのだ。 水面下に潜む空気に気づいていたのだろう。ティルも兵たちを労る言葉をかけたあとは、早々にエレベーターに姿を消した。 密やかな高揚がさざなみとなって打ち寄せる場から、騒ぐ気持ちになれない者たちがひっそりと姿を消していく。フリックも、そのひとりだった。 百戦百勝と謳われた、帝国軍でも屈指の名将。それを倒したのだから、本来なら快哉をあげてもいい。 残る将軍は半数に満たず、帝国の勢威を徐々に解放軍が上回り始めている。副リーダーとしては、そしてオデッサの遺志を胸に掲げるフリックとしては、喜ぶべき出来事のはずだった。 ────テオ将軍を打ち倒したのが、彼の息子である、若干十五歳のリーダーでさえなければ。 崩れ落ちた将軍に駆け寄るティルの背中。最後の力を振り絞って伝えられる言葉。満足そうに息絶えた男の死に顔。そのすべてが、彼ら親子の間に深い信頼があったことを物語っていた。 沈みゆく夕日が、火炎槍の残り火をなお燃やす。赤光を背に立ち上がった少年の顔を、かかる影を、フリックは直視できなかった。 今日、彼は尊敬する父をその手で殺したのだ。 解放軍に引き込んだビクトールが、後を託したオデッサが、そしてそれに相応しいリーダーたれと望んだフリックが、反逆の象徴として期待する多くの民が、彼にそうさせたのだった。 ちらちらと、岸辺で篝火が燃える。赤く、赤く。 「ほら、とっとと行くぞ」 遠く喧噪の入り交じる沈黙を、ビクトールのぞんざいな言葉が破る。フリックの感傷など無意味だと言わんばかりに。そして、それは正しい。自分がひとりなにを思ったところで、ティルには関係ないだろう。 「……そうだな」 炎の残影を瞬きでかき消して、フリックは窓辺から離れた。 硬い靴底が床を叩く音が、岩壁に響いている。 「邪魔するぜ」 ノックもそこそこに扉を開けたビクトールに、フリックはよほど小言を言ってやろうかと思った。グレミオがいれば、やかましく噛みつかれただろう。 グレミオが、生きていれば────。 そもそも、今夜はティルの部屋には近寄らせてももらえなかっただろう。ましてや酒瓶を下げてなど。 詮無いことを考えて、フリックはため息を吐いた。 部屋の中は明るかった。ガラスのはまった窓辺に佇んで、ティルは夜の空を眺めていたようだった。部屋の明かりが反射して、星の瞬きすら見えないだろうに。 少年は音に反応して振り返り、ふと笑った。 「ふたり揃って、どうかしたの?」 穏やかな声だった。あるいは、自分たちが訪れることを予測していたのかもしれない。普段と変わらぬ声音に、フリックは二の句が継げなくなる。 代わりにビクトールが酒瓶を掲げて見せた。 「たまには一杯どうだ?」 「……一杯?」 胡乱げな視線が、太い腕に抱えられた何本もの瓶をなぞっていく。 「細かいことは言うなって」ビクトールは呵々と笑った。 「フリックも?」 少年の視線が移る。手に持った包みを見られるのが何故か気まずかった。 聡い彼のことだ。どうして自分たちが訪れたのか、わからないはずがない。 果たして彼の心配をする資格が、自分にあったのか。 勝利に酔う喧噪を止めることもできず見下ろしたときによぎった思考が、またちらりと脳裏をかすめた。しかし、妙な意地で思ってもいないことを口走るほどのわだかまりも既になく。 「ああ……まあな」 歯切れの悪い自分に、ティルは「珍しいね」と微笑んだ。大人な対応をされれば余計にばつが悪い。 「よし、その机借りるぞ」 気にしていないのか、敢えて空気を読まないのか。ビクトールはさっさと机の上に持ってきた酒瓶を並べていく。どこから出したのか、ちゃっかりグラスも三つ持ってきていた。 息を吐いて、フリックは料理の包みをその隣に広げた。ここまで来てしまったのだ。開き直った方が勝ちだろう。 窓際にあった椅子を寄せれば、人数分の席ができる。酒をグラスに注いで、急ごしらえの酒宴が始まった。 「飲んだことはあるのか?」 「二回ほどね。仕官したら、外で飲む機会があるかもしれないだろ? その前に酒の許容量を知っておくべきだって、テッドが父上に進言してさ。自分が飲みたかっただけなんだろうけど」 懐かしむように目を細めて、ティルはワインを一口飲んだ。少し背伸びをすれば庶民でも飲める程度のものだ。彼の生家で供されるような上等なワインなど、早々手に入るはずもない。 敢えて、ビクトールは口当たりはいいが酔いやすい酒を選んだようだった。 「どうだ?」 「慣れない味だけど……割と、好きだよ」 そうか、とビクトールは満足そうだ。飲め飲めとでも言い出しそうな気配である。 フリックは思わず、「酒ばかり飲むなよ。つまみもちゃんと腹に入れろ」と口を出していた。 「フリック、グレミオみたい」 無防備に出された名前に、固まってしまった自覚はあった。どう反応すればいいのかわからなかったのだ。スカーレティシア城を落としてから、誰もが不用意にグレミオの名前を出さないようにしていたこともある。 ふ、とティルが口元だけで笑った。 「逆に気を遣わせちゃったか。ごめんね」 「まあ、その……」 「ふたりとも、心配して来てくれたんだろう? グレミオのときに……情けないところを見せちゃったし」 「違う」 否定はもはや反射だった。思いのほか強い響きを帯びた声が、夜の空気を切り裂く。 一拍おいてから、否定が別の意味に取られた可能性に気づいた。 「いや……、心配してるのは違わない、が。そうじゃなくて」 ティルがリーダーらしくない情けなさ≠恥じるならば、そう追い込んだ原因の一人は間違いなくフリックだろう。 グレミオの仇であるミルイヒを許す姿に、フリックは初めてティルを「リーダー」と呼んだ。副リーダーとして共に戦ってくれるよう頼むとき、「今はまだ、リーダーとして認めることはできない」と口に出しすらした。自分が認めるような人間であれと、あり続けろと言外に告げたのだ。 それ自体が間違っていたかといえば、そうとまでは言えないと思う。 少なくともオデッサは民の希望にまでなった人間だった。その遺志を継ぐならば、彼女に勝るとも劣らない器の人間であることを見せてほしいというのは、なにもフリックだけの考えではないだろう。 ただ、軍主として振る舞わねばならない場面でリーダーらしくあることと、人間らしい弱さを失わないことは別だ。 フリックとて、オデッサの死を告げられたとき、激情を抑えきれず短絡的な行動を取ってしまったのだ。軍の前に立つときは冷静沈着なリーダーであり続けたティルを、誰が糾弾できるというのか。 「大事な相手を亡くしたら、取り乱すのも当たり前だ。情けないなんて、思うわけがない」 乗り出しそうになった体を椅子に戻し、フリックはまっすぐティルを見据えた。そして、頭を下げる。 「悪かった。そう思わせたのは、俺のせいだよな」 オデッサが見出したティルを認められなかった。自分がいない間にオデッサが死んでいたことを認めたくなくて、八つ当たりしたのだ。オデッサだからこそ座れていたはずの場所を、ティルが横から奪ったようにさえ感じていた。 副リーダーとして、大きくなり始めた解放軍を分裂させるような真似をしてはならなかったのに。 感情に流される、未熟な自分。オデッサにも時折苦言を呈された性質。彼女が選んだティルではなく、選ばれなかった、守れなかった自分自身をこそ責めるべきだった。 結局、きちんとした謝罪もしていない。もう遅かろうとも、けじめはつけるべきだろう。 目を閉じていると、「頭を上げてくれないかな」と柔らかい声がかかった。 「謝罪は受け取るけど、フリックのせいじゃないよ」 視線を戻した先、少年は苦笑を浮かべていた。 「人前で感情のままに振る舞うなって教わって育ってきたからね。あんな様を見せたのは、僕にとって情けない≠アとだっただけ」 「そうか。……じゃあ、言い方を変える。おまえがどうあれ、副リーダーとしても大人としても、失礼な態度だったと思う。それについては、ちゃんと謝らせてくれ」 ビクトールが「確かになぁ」などと大仰に頷いているが、努めて無視した。ティルが目を細める。 「なんというか……真っ直ぐな人だよね、フリックって」 「それ、褒めてるか?」 視界の端でビクトールがにやりと笑った。 「大人が形無しじゃねぇか。十歳差だぞ、十歳差」 「ビクトールは黙ってろ」 「僕としては褒めたんだけどね。話してて安心するから」 「そ、そうか?」 自分が壁を作っていたのが原因だが、ティルから好意的な言動を向けられたのは初めてだったので、少し驚いた。 むずがゆさを振り払うように、グラスのワインを一気に空ける。酒精がふわりと胃を熱くする。 酔いが回ったせいにして、フリックは本題を口にすることにした。 「あのな、リーダー。……ティル」 「うん?」 二杯目をビクトールに注がれているティルが、なに? とばかりに首をかしげた。 「おまえ、ちゃんと泣いたのか?」 「さっき褒められたからって、ずばっと行き過ぎだろ」 ビクトールが呆れた顔をしている。反論すれば口げんかになることはわかっていたので、フリックは口を閉じた。 テオ将軍を打ち倒したあと。ティルはグレミオを失ったときのように慟哭することはなかった。淡々と父親を看取り、冷静なリーダーの顔で全ての指示を出した。 だからこそ、心配だった。ビクトールの誘いに乗って、押しかけてしまうくらいには。 真っ直ぐ見据えるフリックの前で、少年は緩く首を振った。 「解放軍に入ったときから、父と戦う覚悟はしてたよ。だからどっちかといえば、 「……親父さんと戦うにしても、軍主でなけりゃ一騎打ちなんぞ受けずに済んだだろ。引き込んだ俺が言えた義理じゃあないけどな」 ビクトールがすっと真顔になった。 十五歳の──当時は十四歳だったか──少年を軍主に祭り上げたのは、結局のところフリックも同罪だ。彼以外に軍主が務まる人間がいなかった、というのが情けない大人の現実なのだ。 これに関しては謝らない。望まれたとはいえ受け入れたのはティル自身なのだから、謝ればその決断をも侮辱することになる。 だが軍主でさえなければ、その手で親殺しをさせずに済んだだろうと思うこともまた、事実だった。 ティルがきょとんと目を瞬かせる。 「……なんで? 僕がこの道を選んだ以上、軍主かどうかなんて関係ないじゃないか」 「はぁ!? それこそなんでだよ!」 思わずテーブルを叩いて立ち上がる。「落ち着けよ」と声をかけてくるビクトールもまた、険しい顔をしていた。 ううん、とティルが考え込む。ややあって、ゆっくりと話し始めた。 「……そもそもの話、マクドール家は軍閥とはいえ貴族だからさ。貴族が家名を汚すことと、軍人が皇帝陛下への忠誠を裏切ることは最大の禁忌といってもいい。少なくとも父はその価値観を持っていたよ。僕は割と自由に育てられたから、そういう考えを押しつけられることはなかったけど」 「……なるほど」 「そのマクドール家の人間が、帝国五将軍の息子が、反逆者と名指しされたわけだ。除名は当然だし、父さんが即座に殺しに来たっておかしくなかった」 だってそうだろう? とティルが首をかしげる。 「最も信頼されている将軍の嫡男が、皇帝に反逆したんだ。父の手で僕を討ち果たして、汚名を濯ぐのは当然じゃないか。これが七年前なら、弁明の余地もなかっただろうね。……もっとも、皇帝がまともだったら、僕に冤罪がかぶせられることもなかっただろうけど」 フリックには納得できない部分もあったが、話の腰を折るつもりはなかったので、小さく頷く。 「そして僕自身も、反逆者とされた時点で選べる道は二つだけだった。この国から落ち延びるか、帝国に反逆するか。────前に、話したことがあったよね? この紋章のこと」 グラスを置いて、ティルがそっと手袋に覆われた右手に触れる。 「ああ。親友から託されたんだろ?」 ビクトールが酒を飲みながら相づちを打った。 ティルが解放軍に身を寄せつつも、参加するかどうかは明言していなかったころ。どうして帝国に追われているのか、反逆者となったのか、尋ねたことがあった。 テオ将軍が拾ってきたという孤児の子ども。ティルの親友だという、テッドという少年。事の発端は、彼が帝国軍に捕まったことだったそうだ。 手に宿す紋章が狙いだとみたテッドはティルにそれを託し、自身は囮となった。その夜にはティルも追われる立場となっていたのは、やはり紋章が原因だったのだろう。そう、ティルは語った。 「 「ちょっと待てよ。その……、テオ将軍に匿ってもらうって選択肢はなかったのか。そもそも反逆者ってのは冤罪なんだろ? だったら説得することもできたんじゃないか?」 言い淀んだフリックに、ティルが苦笑した。 「意味がないよ。仮にわかってもらえたとしても、皇帝に『紋章を献上しろ』と命じられたら、父さんは差し出さざるを得ない。じゃあ僕はなんのためにテッドを見捨てたの、ってなるじゃないか」 は、と自嘲のような吐息が落ちた。 「親友を囮にして、命がけで託された紋章も差し出して、僕ひとりのうのうと生きていくなんて────冗談じゃない」 吐き捨てるような口調は、今日初めてティルが見せた感情の揺らぎだった。普段周囲が鼻白むほどに冷静で、穏やかな笑顔を崩さない少年が、本気で憤りをあらわにしている。 迸る、圧倒的なほどの怒気。ビクトールすら気圧された顔をしていた。 だが一呼吸置けば、胸の内からふつふつと湧き上がる熱がある。 場にそぐわないと理解している。それは確かに高揚だった。 スカーレティシア城を落とした一件で、フリックは完全にティルをリーダーとして認めた。 そして今、ティル・マクドールという個人に、フリックは眩しささえ覚えている。かつてオデッサに感じたようでいて、違う感覚だった。 ────人間の本質は、その人がなにを許せないかで知れる。 そう言っていたのは誰だったか。 言い換えれば、相手がなにを一番大事にしているのかということだ。自分だったり、親兄弟だったり、誓いだったり。そこに優劣はないが、共感の度合いは変わる。 ティルは恥ずべき裏切りを犯すより、みっともなく逃げてでも約束を果たし続けると言ったのだ。そして逃げるよりも、戦って抗うことを選んだのだと。 戦士としての誇りを抱くフリックにとって、ティルの価値観は極めて近しく、また尊敬できるものであった。 ふ、とティルは息を吐いた。気を鎮めるような仕草だった。 「グレミオやクレオは、父さんのところに行こうって言ってくれたけどね。……無理だとは、言えなかったよ。心配してくれているのは、痛いほどわかってたし。僕もまだ、現状を甘く見たい気持ちが捨てきれなかったから」 「冤罪を晴らすことはできなかったのか? 五将軍ならそのくらいの権力はあるだろ?」 空気を変えようとしてか、ビクトールが軽い口調で言った。 「それも無理かな。だって、そもそも僕に反逆者の汚名≠ェ着せられたこと自体がおかしくない? 僕自身はただの一近衛兵だとしても、百戦百勝と謳われる将軍の息子なんだよ?」 家柄をひけらかすことを好まないティルが、殊更に冗談めかした口調で返した。思わず、失笑する。 「普通の軍政官じゃ、父さんを敵に回すだけ。同じ五将軍ならまだしも、足を引っ張り合うような関係性じゃない。証拠もなく、ティル・マクドール≠反逆者として即指名手配できる相手なんてほんの一握りだ」 「……皇帝か、皇帝によほど近しい相手」 「そう。やったのはウィンディだとしても、それを許したのは皇帝だ。ことは皇帝の失策になりかねないんだ。冤罪を認めて帝国の権威に傷をつけるより、僕を切り捨てた方がはるかに早いじゃないか」 納得したくはないが、理解できる論理ではあった。不承不承、フリックは頷く。 「僕が胸を張って生きていくためには、皇帝を打ち倒して本物の反逆者になるしかなかった。……わかってはいたんだ。正直、解放軍に誘われたときは運命かと思ったよ」 「そりゃよかった。これでも責任は感じてたんだぜ」 「フリックといい、なんだかんだ真面目だよね」 ビクトールが大げさに胸を撫で下ろすと、ティルはくすりと笑った。 「まあ、僕も迷ってたから。僕だけならともかく、グレミオとクレオも巻き込んじゃうしね。父さんのところに行けって言っても無理だろうし……」 「そりゃ無理だ」 ビクトールが笑って両手を挙げた。フリックも肩をすくめてみせる。 「俺でもわかるぞ」 わかりやすく過保護だったグレミオはもちろん、クレオもこうと決めたら頑固で忠実だ。どれほど説得したところで、ティルを置いて去るはずもない。 彼らも帝国に疑問を抱いていたとはいえ、少年の決断ひとつで、解放軍に身を投じることを躊躇わなかったのだから。 だよね、とティルは頷いた。 「あと、下手をすれば解放軍にも迷惑を掛ける可能性もあったからさ。もちろん、僕がいなくたって叩き潰そうとはしただろうし……結果としてああなってしまったけれど……」 「五将軍の息子さえも帝国を見限ったとなれば、解放運動が盛り上がるだろうな……」 ここまで聞けば、フリックにだってわかる。苦い記憶が喉を灼いた。続きを引き取った声は思いのほか低く響いた。 ビクトールがグラスをぐいと傾け「ま、それでも俺は誘っただろうが」と笑う。 「オデッサも、わかってたんだろうな……」 過去を振り返るほどに、自分の未熟さが身にしみた。 「オデッサさんが斃れて、腹をくくったよ。彼女の言うとおり、僕は僕の見たものから目を背けられなかった。……本物の反逆者になるんだ。そのときから、父さんをこの手で殺す、あるいは殺される覚悟はしていたよ」 「……そうか」 それ以上、なにも言えなかった。ビクトールがナッツを渋い顔で噛み砕く。 「親父さんは……投降する気はなかったんだな」 少年は微かに笑ったようだった。 「もう勝ち目はないことも、皇帝陛下が変わってしまったことも、わかっていたんじゃないかな。でも、忠誠を捧げた先を変えられないのも、変えるつもりがないのも父さんだ。僕がテッドを助け出すと決めたように、父さんだって意地を貫いただけだ」 「それだけじゃないだろ」 「え?」 「全力で戦ったのは、おまえのためでもあると思うぜ」 フリックの言葉に、ティルは意表を突かれたように目を瞬かせた。 「他の将軍と違って、親子を理由に邪推する奴は絶対にいる。最悪、両天秤をかけてたなんて疑惑が出かねない。寄せ集めの解放軍で、リーダーへの信頼が揺らいだら致命的だ。だから、将軍は最後まで戦った……」 ビクトールが目を見開いている。そしてティルは笑おうとして、失敗したように顔をゆがめた。 澄んだ赤を塗り重ねた黒。角度や感情によって僅かに色を変える双眸が揺らぎ、震える吐息を吐き出す。 「……父さん……」 瞼が降りて、あげられたときにはもう、水面は凪いでいた。 それが、十五歳の子どもが一瞬だけ隠しきれなかった傷だった。 あとは表面上和やかに酒宴は進んだ。ティルは静かに笑って、慣れない酒を飲んだ。 「ありがとう、お陰で今夜はよく眠れそうだよ」 頬を赤く染めて、酔いに身を任せた少年が見送ってくれる。 ────その瞬間湧き上がった苛立ちを、フリックはやるせなさだと処理した。 ティルが帝国を敵に回してでも助けたかった親友が、自ら命を散らしても。 受け継いだ紋章が、彼の大切な人たちの魂を食らっていたのだと知っても。 少しだけ顔を伏せて、立ち上がって前に進み続ける少年を、支えてやりたかった。泣かせてやれない自分をもどかしくすら感じた。 結局、フリックにできるのは、戦うことだけだった。勝ってこの戦争を終わらせることが、きっと彼の選択を肯定することにもなるのだろうと信じた。 燃え落ちる城の中で、ティルの背中を押すことに躊躇いはなかった。誰よりも犠牲を払った少年こそが、明るい夜明けを見るべきだと思った。 ティルの行く先に紋章がもたらす困難が待ち受けていたとしても、グレミオがいれば大丈夫だろう。彼が蘇ったとき、確かにフリックは安堵したのだから。 これで補佐役もお役御免だ。 肩が軽くなったと同時に、何故かよぎったさみしさを、フリックは三年間忘れられずにいる。 *** 枕代わりに手を頭の下で組み、フリックはベッドに寝転がっていた。 石造りの天井は、一度は滅びた歴史を感じさせる。新同盟軍の新たな拠点となった城は、使える部分の修繕も終わり、今後に向けての拡張計画が進んでいるところだ。 つまり今はさほど広くないわけで、フリックは腐れ縁のビクトールと同じ部屋を割り当てられていた。 昨日から一気に天気が崩れ、部屋の中は昼間でも明かりがなければ薄暗い。 強い雨は、外で大がかりな訓練予定だった傭兵部隊、その隊長であるフリックとビクトールの予定を削り取った。シュウから下された書類仕事はあったが、それも昨日のうちに終わらせている。 昼間から呑みに行くのも憚られて、無聊を託つているわけである。 ルカとの決着は近い。皇王アガレスの死を聞いてから、戦士としての勘がひりついた風を感じていた。おそらく近いうちに、事が大きく動くだろう。 ハイランドに走ったジョウイは、ルカが斃れたら、リオウの元に戻ってくるだろうか。 ふ、と息を吐く。 「……リオウ、か」 旧同盟内部の利害に関係ない立場と、英雄が持っていた紋章。人好きのする性質もあって軍主に祭り上げられた少年。自分たちが命を救ったとはいえ、巡り巡ってそのせいで戦いに巻き込まれたのだ。 個人としても、軍の一員としても、気に掛けるのは当然だった。 なんの因果か新都市同盟軍でも幹部の立ち位置にいるし、与えられた職責を全力で果たすつもりではいる。 だが自分たちが始めた戦争ではないことや立場の違いを差し引いても、心持ちが違っているのもまた、事実だった。 「あー……」 今まで見て見ぬふりをしてきたなにかが浮き彫りになりそうで、フリックは体を横に向けた。反対側の壁際に設置されたベッドでは、暇を持て余したビクトールが大いびきを掻いている。 この二年、いやというほど見飽きた顔だ。今の今までなにも思わなかったはずなのに、ここ数日は男の顔を見るたびに、静かな酒宴の夜を思い出す。 ────トラン共和国初代大統領となったレパント。その息子であるシーナの発案で、トランと手を結ぶ案が浮上したからだ。 トランは、オデッサが解放の旗を揚げ、ティルが継いで先頭を駆け、自分たちが力を合わせて打ち立てた国だ。今は戻るつもりがなくとも、あそこが故郷であり、目指した夢の形だ。 ルカが、ハイランド皇国がトランの隣国になることを許せば、必ず災いが降りかかる。だからこの戦争は、雇われ傭兵であると同時に、大切なものを守るための戦いでもあるはずなのだ。 ごろり、と転がって、再びフリックは天井を見上げた。 「……なにが違うんだろうな」 ティルと、リオウと。 性格はともかく、紋章という枷と、自分が始めたわけでもない戦争においてリーダーの重責を担っている点は変わらない。戦争の目的が防衛か反逆かというのも、本質的な問題ではない。支えてやりたいと思っていることだって同じだ。 だけどリーダーとして認めたはずのティルと接しているとき、時折覚えた苛立ちを、リオウに感じたことは一度もない。グレミオの不在に、彼の空けた穴に、抱いたなんともいえない感情も。 もちろんナナミが失われることなどあってはならないが、仮に彼女が戦列を離れたとしても、同じ気持ちを抱くとは思えなかった。 リオウのことはまずシュウがなんとかするだろうし、それ以外にも彼を気に掛けている者は沢山いる。 仮に頼られなかったとしても、それはフリックの役目ではなかったというだけのことだ。頼られれば嬉しいが、そうでなくとも構わない。無力さを切なく思ったりはしない。 ────そう、自分はあのとき、切なかったのだ。 他の誰でもないフリック自身が、リーダーであることをティルに望んだのに。弱さを見せてもらえないことに苛立って、頼られもしない自分が不甲斐なかった。 テオを殺した夜も、テッドを失った日も。ティルは泣かなかった。 泣かせて、やりたかった。 リーダーではなく、ひとりの人間としてティルを大切にしていたグレミオのように。だからといって家族のような立ち位置がほしいわけではなかった。 オデッサに抱き続けるものとは違う、だけど本質的には同じ、欲。 それは、つまるところ。 「……俺はあいつを……好き、なんだろうな……」 当時はわからなかった感情も、今穏やかに記憶から取り出してみると、笑ってしまうくらいわかりやすい。 「……なんだ、やっと自覚したのか。青い上に鈍いときたら世話ねぇな」 いつの間に起きていたのか。静かになったと思えば、壁際から呆れたような声を投げつけられる。 「うるさい。……わかってたのか」 「俺からすりゃ、どう見たっておまえはティルに惚れてるよ」 笑い含みの声に、不思議とからかう響きはない。 フリックもまた、ティルの名前を出されたことに驚いていない自分を知った。 「ま、オデッサのこともあるし、当時は気になるくらいだっただろうけどな。そのうち惚れるだろうとは思ってたぜ。なにしろ、ティルはおまえの好みど真ん中だ」 「知ったような口を」 「そりゃ五年以上の付き合いだからな。知ったようなもなにも、見て知ってるさ」 本当かよ、と思ったのが伝わったのだろう。思いのほか真剣な声が返ってきた。 「フリック、おまえは根っから補佐役に向いてる。だからまず、自分が支えようと思えるタイプが好きなんだ。そんでもって、自分にないものを持ってるとなお惹かれる」 思わず起き上がる。体を転がして、こちらを向いたビクトールは真顔だった。 「強く凛として、カリスマがあって、こいつについて行けば間違いはないと思わせてくれる奴。人として敵わないと思わせられるような相手。それだけならまあ、尊敬や忠誠の方向に行くかもな」 「……それは、俺だけじゃないだろ」 「でも、どこか弱さや脆さがあって、それを隠そうとしてるんだ。放っておけないし、支え甲斐もあるときた。高嶺の花なら尚更、もう目が離せないだろ。……どうだ?」 反論は形にならず消えていった。あまりに的確に言い表され、フリックは唸ることしかできない。 「ついでに言えば、弱いところを自分だけに見せてほしいって独占欲のあるタイプじゃねぇよな? でもそれを支えるのは自分がいい。普段尻に敷かれてても、ここぞというときに頼られたいわけだ。────だからティルに苛ついてたんだろ」 最後はにやにやと笑いながら、ビクトールは言い切った。心底まで見通された不快感よりも、分析されている自分に情けなさが勝る。 クソ、と毒づいて、フリックは項垂れた。 「まあそう落ち込むなって。気づいてたのは俺とマッシュと、あとはハンフリーくらいだろ。得体の知れねえ奴らはともかくとしてな」 「……確かに、熊に見透かされてたのは落ち込むけどな」 「おいこら誰が熊だ」 「それよりも、好みだからって心変わりしてる自分がショックだ……オデッサにもティルにも合わせる顔がないだろ……」 職業柄気持ちの切り替えが早い自負はあったが、さすがにへこむ。 だがビクトールは「はあ?」とあからさまに呆れた声をよこした。慰められるのは真っ平だが、馬鹿にされれば腹立たしい。 「まさか浮気だとでも思ってるんじゃないだろうな。それを言うなら、オデッサだって同じ立場だろうが」 「あー……」 そういえば、オデッサは恋人の貴族を殺されて赤月帝国に反旗を翻したのだった。 初めての男でありたかったという悔しさより、彼女が自分を選んでくれたことが嬉しくて、すっかり気にしていなかったが。 「いや、だとしてもな……」 「期間がどうとか詰まらねぇことは言うなよ。会ったその日だろうが、十年口説かれたあとだろうが、惚れるときは惚れるんだ。ただ、そのタイミングだったってだけだ」 ビクトールらしくもない熱弁だ。柄にもない、と言うのはさすがに悪いか。 「────フリック。死んだ人間ってのは……どうしたって過去になっていくもんだ。どんなに大事だろうと、どんなに愛していようとな」 急にしんみりとした声を出されたので、フリックは顔を上げた。 「あいつらは死んだその時間で止まってる。それ以上はなにもできないし、なにも変わらない。変えられやしない」 普段飄々とした眼差しが、ふと郷愁の色を帯びる。 遠く、過去を見ているのかもしれない。そういえばこの男も、大事な人たちを多く亡くしているのだった。 「……ああ」 「生きるってことは、変わる可能性を持ち続けることだと俺は思ってる。だから新しく大事な相手を見つけるのも、惚れるのも、裏切りじゃない。変わっただけだ。……俺たちは、生きてるんだからな」 大体なあ、とビクトールはこちらを指さした。 「あのオデッサが、『一生私だけを愛していてちょうだい』なんて言うタマかよ」 「気色悪いものまねはやめろ。あと人を指さすな」 文句を言いながらも、自然と口元が緩んだのがわかった。 もしも、彼女が夢枕に立ってくれたとして。 フリック自身が望んでオデッサに縛られ続けるなら、彼女もなにも言わないだろう。 だけどオデッサに愛を誓ったことを理由に足踏みをしているなら、『そんなのちっとも嬉しくないわ』と怒られたはずだ。背中を叩かれて、押されたはずだ。 今を生きるフリックの幸せを、彼女は願ってくれただろう。 そんな、強くて優しい、人だった。────過去形に、思い出に、なってしまった。 彼女への愛は未だ胸にあるけれど。消えて無くなることは一生ないだろうけれど。これも少しずつ、形を変えていくのかもしれない。 フリックは、生きていくのだから。 「……いい顔になったじゃねぇか」 満足そうにビクトールが笑う。反射的に舌打ちしていた。 「お節介焼きが」 頼りになる相棒ではあるのだが、それ以上に迷惑を掛けられてもいる。感謝はあっても言ってやるつもりはなかった。 「へーへー、言ってろ。しけた面見せられる方が鬱陶しいからな」 ビクトールも慣れたものだ。 「だいたい、のんびりしてる余裕なんてねぇだろ。肝心のティルは行方不明、おまけに紋章のこともある。……あいつの体は、変わらないんだぞ」 「ああ」 「俺たちはいつか、いやでもティルの過去になるんだ。だったら今のうちに、後悔しないよう動けよ」 それが、生きてる人間の特権ってやつだろ。 ビクトールの言は悔しいことに、最初から最後までその通りだった。 今度こそフリックは素直に頷いた。 「そうだな。……やれるだけ、やってやるさ」 まずはティルを探し出して。気持ちを伝えて。そして、惚れてもらうことからだ。 窓越しの空は、厚い雨雲に覆われている。その先に輝く星が、ふと無性に見たくなった。 [#] 幻水108題 038. 彼方の星 || text.htm || |